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人 物 解 説 な ど |
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作 品 紹 介 ペ ー ジ |
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初対面の言語動作は人の運命を決すること多し |
森 鴎外 |
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1862年〜1922年。小説家、軍医、官僚。12歳で医学校予科に入学。19歳で本科を卒業後、軍医となる。22歳から5年間ドイツへ留学。陸軍軍医総監へと地位を上り詰めながら、文芸活動を続け「舞姫」「うたかたの記」「ヰタ・セクスアリス」「高瀬舟」「阿部一族」などの代表作を発表する。 |
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思うところは目的以上に置け。天に登ろうとして、ようやく屋根に登るようなものである |
新渡戸 稲造 |
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1862年〜1933年。教育者・思想家。盛岡藩士の家に生まれ、札幌農学校に入学、キリスト教徒となる。22歳から米国・ドイツに留学。38歳で書いた『武士道』がベストセラーとなり、58歳で国際連盟事務次長となる。64歳のとき海軍省と対立する発言をして非難され、失意の日々を送る。 |
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愛せよ。人生においてよいものはそれだけだ |
ジョルジュ・サンド |
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1804年〜1876年。フランスの作家。父が早く亡くなったため子供時代は父方の祖母の館で過ごし、この経験がのちの田園小説のモチーフとなった。18歳で男爵と結婚したが間もなく別居し、多くの男性と恋愛関係をもった。女性権利拡張運動を主導するとともに文学作品を書き続けた。 |
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何をするにも最初が肝心、という格言はどんな学問にもあてはまる |
カール・マルクス |
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1818年〜1883年。ドイツ・プロイセン王国出身の思想家、革命家。27歳でプロイセン国籍を離脱し、以降は無国籍。31歳でイギリスに渡って研究を続け、48歳で『資本論』を出版。社会主義に科学的な基礎を与えた。その運動と著作は、その後の社会主義運動、国際政治、思想に多大な影響を与えた。 |
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互いに自由を妨げない範囲において、我が自由を拡張すること、これが自由の法則である |
カント |
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1724年〜1804年。プロイセン王国(ドイツ)の哲学者。『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱した。ドイツ観念論哲学の祖とされる。彼が定めた超越論哲学の枠組みは、以後の西洋哲学全体に強い影響を及ぼしている。 |
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人間は不遇になった時、はじめて友のなんたるかを知るものだ |
前田 利家 |
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1539年〜1599年。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。加賀藩主前田氏の祖。俗に加賀百万石の祖とも称される。豊臣政権の五大老の一人。「槍の又左」と呼ばれ勇名を馳せる一方、後年には漢籍などの学問も学び、茶の湯、能などの文化的活動も積極的に行った。 |
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どんな遠くに旅をしても、その距離だけ内面へも旅をしなければ、どこへも行きつくことはできない |
リリアン・ヴィルヘルム・スミス |
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1882年〜1971年。アリゾナの風景画や肖像画で知られるアメリカ合衆国の画家。ニューヨーク市に生まれ、国立デザインアカデミーや美術学校で学んだ。1907年、ガンマンであり興行主でもあったバッファロー・ビルの西部開拓時代の実演ショーに参加し、西部に魅了された。スー族やアラパホ族の100以上の肖像画も描いている。 |
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人の巧を取って我が拙を捨て、人の長を取って我が短を補う |
桂小五郎 (木戸孝允) |
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1833年〜1877年。長州藩出身の幕末から明治時代にかけての政治家。大久保利通、西郷隆盛とともに維新の三傑の一人に数えられる。16歳で吉田松陰の門弟となり、19歳で江戸に出て剣術、兵術、造船術、蘭学などを学んだ。1866年には藩を代表して薩長同盟を締結、1868年には五箇条の御誓文の起草・監修にあたり明治維新の基本方針を定めた。 |
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何でも好きなことをしたらいい。ただし、この世界に喜びを生むものにしなさい |
ウォルト・ホイットマン |
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1819年〜1892年。アメリカの詩人、随筆家、ジャーナリスト。アメリカ文学に大きな影響を与えた。南北戦争では北軍の志願看護師として陸軍病院で働いた。奴隷制の維持に反対し、禁酒令の施行を主張した時期もあった。代表作は『草の葉』など。 |
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光の中を一人で歩むよりも、闇の中を友人と共に歩むほうが良い |
ヘレン・ケラー |
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1880年〜1968年。アメリカ合衆国の教育家、社会福祉活動家、著作家。 視覚と聴覚の重複障害者。アン・サリヴァンの努力もあって障害を乗り越え、世界各地を歴訪して障害者の教育・福祉の発展に尽くした。男女同権論者、人種差別反対論者であり、過酷な若年労働や死刑制度、第一次世界大戦の殺戮にも反対した。 |
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立派な人は道理にあうかどうかで行動に移す。つまらない人は得するかどうかで行動に移す。 |
吉田 松陰 |
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1830年〜1859年。江戸末期の志士。長州藩の下士として生まれるが、長崎、江戸に遊学して脱藩。洋学を学び、24歳でアメリカ軍艦に乗り込もうとして捕らえられ幽閉される。27歳で松下村塾を開き、明治維新で重要な働きをする多くの若者を教育した。安政の大獄に連座して29歳で処刑された。 |
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教育は、受ける側の問題ではなく、潜在能力を引き出せるかどうかという、教える側の問題である |
中村 天風 |
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1876年〜1968年。大日本帝国陸軍の諜報員、実業家、思想家、ヨーガ行者、自己啓発講演家。学生時代に喧嘩で相手を刺殺(正当防衛が認められている)。結核にかかり、弱った心を強くする方法を求めて世界を遍歴。インドでの修行を通じて結核は治癒し、悟りを得るに至ったという。天風会を創始し心身統一法を広めた。 |
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誰もが自分の視野の限界を、世界の限界だと思い込んでいる |
ショーペンハウエル |
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1788年〜1860年。大学で哲学を学び、25歳で博士論文『根拠の原理の四つの根について』を、30歳で主著『意志と表象としての世界』を書く。芸術論・自殺論が有名だがその論考はあらゆるジャンルを網羅しており、仏教哲学、インド哲学も取り込んでいる。 |
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男子も企てざる冒険を敢へて為し、狂気扱ひせられたことも度々でありました |
広岡 浅子 |
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1849年〜1919年。実業家、社会運動家。女に教育は不要という常識により読書を禁じられるが、17歳で嫁いだ後も独学を続け、20歳で実業界に身を投じる。炭鉱事業などの冒険的事業に乗り出し、狂人扱いされたという。日本女子大学校の発起人の一人。NHK連続テレビ小説『あさが来た』のモデル。 |
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目的を達成する為には人間対人間のうじうじした関係に沈みこんでいたら物事は進まない |
大久保 利通 |
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1830年〜1878年。日本の武士、政治家。明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。初代内務卿で、内閣制度発足前の明治日本政府の事実上の首相。西郷隆盛や板垣退助ら征韓派と対立し、明治六年(1873年)政変にて西郷らを失脚させた。馬車で皇居へ向かう途中、6人の不平士族に殺害された。 |
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現実というのは、 常に公式からはみ出すものだ |
ファーブル |
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1823年〜1915年。フランスの博物学者、教師、詩人。南フランスの大自然に囲まれて育った。師範学校を出て中学の教師になり、物理学、化学の普及書を著した。様々な昆虫の観察を行い、それらをまとめて発表したのが『昆虫記』である。 |
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おしゃべりこそ、最後の逃げ場 |
ゾラ・ニール・ハーストン |
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1891年〜1960年。アメリカ合衆国のアフリカ系アメリカ人作家、民俗学者。1920年代から40年代にかけて活躍したが、その後約30年間、著書が絶版になっていた。1975年にアリス・ウォーカーに再発見され、ハーレム・ルネサンスの代表的作家として再評価されることになった。
代表作は1937年の『彼らの目は神を見ていた』 |
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自らの激情を抑え切れない人間は、もはや、主人ではなく奴隷である |
スピノザ |
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1632年〜1677年。オランダの哲学者。ユダヤ人として生まれたが、ユダヤ教の教育に不満を抱き、ギリシャ・ラテンの教養を身につけた。数学・哲学、特にデカルト野を研究した。無神論的な傾向のため、ユダヤ教団から破門された。大学から招かれても拒否し、孤独・貧困の中に一生を送った。 |
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稽古とは、一より習ひ 十を知り 十よりかへる もとのその一 |
千 利休 |
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1522年〜1591年。わび茶の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。豊臣秀吉の側近という一面もあり、秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」のなかで多くの大名にも影響力をもった。しかしやがて秀吉との関係に不和が生じ、最後は切腹へと追い込まれた。 |
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教育は人生のための準備ではありません。教育自体が人生そのものなのです |
ジョン・デューイ |
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1859年〜1952年。アメリカの哲学者。食料品店に生まれ、15歳で名門バーモント大学に入学。進化論や哲学を学んだ。卒業後は教師として勤めたのち大学へ戻り、30歳で教授になる。機能主義心理学を打ち出し、プラグマティズムを代表する思想家とされる。問題解決学習の創始者とされている。 |
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女は何世紀もの間、男を本来の二倍の姿に映し出す魔法の姿見として用いられてきた |
ヴァージニア・ウルフ |
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1882年〜1941年。イギリスの小説家、評論家。6歳の頃から異父兄から性的虐待を受け、13歳で母の急死によって神経衰弱を発病。その後も神経衰弱とうつ状態を繰り返す。33歳で著作を始め『船出』『ダロウェイ夫人』『灯台へ』『オーランドー』等を発表して名を馳せたが、59歳で自殺した。 |
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どんな愚かな者でも、他人の短所を指摘することはできる。そしてたいていの愚かな者が、それをやりたがる |
ベンジャミン・フランクリン |
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1706年〜1790年。アメリカの政治家、科学者。ろうそく製造業の家に生まれ、10歳で学校教育を終えて印刷業で成功。46歳のとき凧を使った実験で雷雲の帯電を証明し、避雷針等を発明。70歳で独立宣言の起草委員となり、77歳でイギリスに独立を承認させるパリ条約使節団に参加。84歳で死去。 |
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我を愛する心を以って人を愛せ。自己を許すが如く人を許せ。人を責めるが如く自己を責めよ |
西郷 隆盛 |
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1828年〜1877年。薩摩藩士・軍人・政治家。下級藩士の家に生まれ、藩政に参画。尊王攘夷運動に奔走。明治維新に大きな役割を演じて新政府参与、大総督参謀、参議筆頭となり廃藩置県に尽力したが、征韓論を唱えて辞職。設立した私学校の部下に擁立されて西南戦争を起こし、49歳で戦死した。 |
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もっとも暗い雲の下でも、人間は清らかに美しく、楽しく生きられる |
アン・サリヴァン |
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1866年〜1936年。ヘレン・ケラーの家庭教師。9歳のとき母親を亡くし救貧院に入る。病気によって盲目となり盲学校に入り、訓練と手術の結果ある程度視力を回復した。21歳でヘレン・ケラーの家庭教師となる。ヘレン・ケラーは彼女のおかげで、目、耳、声の三重の身体障害を克服した。 |
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人間は、努力する限り、迷う |
ゲーテ |
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1749年〜1832年。ドイツの詩人・小説家。16歳で大学に入り法律・医学などを学んだ。卒業後、詩や小説を書き、名声を得る。中部ドイツ、ワイマル国の宰相を務める一方、文学や自然科学にも専念してドイツ文化に大きな影響を与えた。代表作は「若きウェルテルの悩み」「ファウスト」など。 |
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自分の価値は自分で決めることさ。つらくて貧乏でも自分で自分を殺すことだけはしちゃいけねぇよ |
勝 海舟 |
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1823年〜1899年。幕末から明治初期の幕臣、政治家。下級武士の家に生まれ、蘭学を学ぶ。32歳で長崎海軍伝習所に入所。37歳のとき咸臨丸で渡米。帰国後、神戸海軍操練所を開設。戊辰戦争で幕府軍の軍事総裁となり、江戸城無血開城を実現。維新後は参議、海軍卿、枢密顧問官を歴任した。 |
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偶然は準備のない者にほほえまない |
パスツール |
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1822年〜1895年。フランスの生化学者・細菌学者。「科学には国境はないが、科学者には祖国がある」という言葉で知られる。ロベルト・コッホと共に「近代細菌学の開祖」とされる。
分子の光学異性体を発見。またワクチンの予防接種という方法を開発し、狂犬病ワクチン、ニワトリコレラワクチンを発明した。 |
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若くて美しいことは、自然のいたずら。年をとっても美しいことは芸術 |
エレノア・ルーズベルト |
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1884年〜1962年。アメリカ合衆国第32代大統領フランクリン・ルーズベルトの妻、アメリカ国連代表、婦人運動家、文筆家。リベラル派として高名であった。1946年、国際連合人権委員会委員長に選出される。人権委員会は世界人権宣言の起草に着手し1948年12月に国連総会で採択された。 |
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険しい丘に登るためには、最初にゆっくり歩くことが必要である |
ウィリアム・シェークスピア |
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1564年〜1616年。イングランドの劇作家、詩人。28歳のときには劇作家として活躍していた。引退するまでの約20年間に、四大悲劇『ハムレット』『マクベス』『オセロ』『リア王』をはじめ、『ロミオとジュリエット』『ヴェニスの商人』『夏の夜の夢』など多くの傑作を残した。 |
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