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作 品 紹 介 ペ ー ジ |
91 |
決して時計を見るな。これは若い人に覚えてもらいたいことだ |
トーマス・エジソン |
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1847年〜1931年。アメリカの発明家。小学校入学後「なぜ?」を連発して教師を困らせ、3カ月で退学。母の教えを受けながら自宅で独学し、12歳で新聞売りとなった。蓄音機、白熱電灯、活動写真、エックス線透視鏡、アルカリ蓄電池など、1000種類を超える発明をした。発明王と言われる。 |
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92 |
自分が真実から目をそむけて子どもたちに本当のことが、語れるのか |
宮澤 賢治 |
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1896年〜1933年。詩人、童話作家。農学校の教員となるが30歳で退職。昼は開墾、夜は読書と創作の生活をする。「羅須地人協会」を設立して農民芸術を実践。農業指導などに奔走するうち病に倒れ、37歳で死去。主な作品は『銀河鉄道の夜』『雨ニモマケズ』『農民芸術概論綱要』など。 |
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93 |
喜び大なるほど、先立つ苦しみもまた大なり |
アウグスティヌス |
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354年〜430年。古代キリスト教の神学者、哲学者。ラテン教父とよばれる神学者たちの一人。キリスト教がローマ帝国の国教とされた時期を中心に活躍し、正統信仰の確立に貢献した教父であり、古代キリスト教世界において多大な影響力を持った理論家。 |
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94 |
不遇や孤独を恐れては、本当に欲しいものは手に入らない |
岡本 かの子 |
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1889年〜1939年。小説家、歌人。女学校在学中から「明星」や「スバル」に短歌を発表し「青鞜」にも参加して才能を認められた。漫画家岡本一平と結婚。芸術家岡本太郎の母。40歳で欧米に遊び、帰国後、小説を書き始めた。代表作は「鶴は病みき」「老妓抄」「河明り」「生々流転」など。 |
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95 |
自分に何ができるかは、自分以外の者には分からない。いや、自分でもやってみるまではわからない |
ラルフ・ワルド・エマーソン |
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1803年〜1882年。アメリカの思想家、哲学者、作家。7歳のとき父が他界し、母親に養育された。18歳で大学を卒業し、その後牧師になる。自由信仰のため教会を追われ渡欧。帰国後は個人主義を唱え、米文化の独自性を主張した。33歳で評論'Nature'を発表し、超越主義哲学を世に打ち出した。 |
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96 |
天がわしをもう五年間だけ生かしておいてくれたら、私は真の画家になれただろうに |
葛飾 北斎 |
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1760年〜1849年。浮世絵師。現・東京都墨田区の一角に生まれ、18歳で浮世絵師・勝川春章の門下となる。24歳で勝川派を破門され、42歳で狂歌絵本『画本東都遊』刊行開始。54歳で『北斎漫画』の初編を発刊。63歳から制作を始めた『富嶽三十六景』が73歳で完結する。創作を続け、90歳で没する。 |
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97 |
男性と協力して対等に力を発揮できる自立した女性の育成 |
津田 梅子 |
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1864年〜1929年。女子教育の先駆者。幕臣の家に生まれ、6歳から12年間、また25歳から3年間、アメリカ留学。女子教育の重要性を自覚し「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を開校。身分にとらわれない女子教育を始める。長期の闘病後、64歳で死去。2024年より新五千円札の顔となる。 |
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98 |
好奇心はいつだって、新しい道を教えてくれる |
ウォルト・ディズニー |
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1901年〜1966年。アメリカ合衆国のアニメーター、プロデューサー、映画監督、脚本家、漫画家、実業家。ミッキーマウスをはじめとするキャラクターの生みの親。ディズニーリゾートの創立者。兄と共同で設立したウォルト・ディズニー・カンパニーは数々の倒産、失敗を繰り返すも、350億ドル以上の収入を持つ国際的な大企業に発展した。 |
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王国を統治するよりも、家庭内を治めることのほうがむずかしい |
モンテーニュ |
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1533年〜1592年。フランスの哲学者。裕福な家に生まれ、法官になった。37歳で法官を辞任して故郷に戻り、やがて『エセー(随想録)』の執筆を始めた。
47歳で主著『エセー』を刊行した。48歳から52歳までボルドーの市長を務めた。59歳で死去するまで『エセー』の加筆と改訂を続けた。 |
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自分が相手を疑いながら、自分を信用せよとは虫のいい話だ |
渋沢 栄一 |
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1840年〜1931年。実業家、慈善家。豪農から幕臣に取り立てられ、ヨーロッパ各国を訪問。明治政府では大蔵官僚。退官後は実業家に転じ、多種多様な会社の設立に関わった。2024年より新一万円札の顔となる。また2021年に渋沢を主人公としたNHK大河ドラマ『青天を衝け』が放送される予定。 |
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101 |
人が他の人の悪口を言うのを聞いて喜ぶ者は心のいやしい人である。 |
ジョージ・エリオット |
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1819年〜1880年。イギリスの作家。心理的洞察と写実性に優れた作品を発表した。『アダム・ビード』『サイラス・マーナー』『ミドルマーチ』などの作品で知られており、特に『ミドルマーチ』は後世のヴァージニア・ウルフによって賞賛された。 |
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われ、ことにおいて後悔せず |
宮本 武蔵 |
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1584年〜1645年。江戸時代初期の剣術家、兵法家、芸術家。二刀を用いる二天一流兵法の開祖。生涯に60回以上命がけの勝負をして一度も敗れなかった。巌流島での佐々木小次郎との決闘が有名である。晩年に著した『五輪書』は剣術書中の白眉とされる。 |
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103 |
真理は子供の口から出る |
プラトン |
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紀元前427年〜紀元前347年。古代ギリシアの哲学者。ソクラテスの弟子、アリストテレスの師。ソクラテスから問答法と、哲学者としての主知主義的な姿勢を学んだ。アカデメイアに学園を開設した。『ソクラテスの弁明』や『国家』等の著作で知られる。 |
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104 |
生きる事が許されるなら、わたしは世の中のため、人類のために働いて見せます |
アンネ・フランク |
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1929年〜1945年。ユダヤ系ドイツ人。ナチスによる迫害から逃れて一家でオランダへ亡命。オランダがドイツ軍に占領されると、隠れ家での潜行生活に入り、アンネはその生活を日記に書き続けた。1944年、ナチス親衛隊に隠れ家を発見されて強制収容所へ送られ、翌年15歳で死亡。 |
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神は男をつくられた。そして彼が十分孤独ではないと思われたので、伴侶を与えられた |
ポール・ヴァレリー |
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1871年〜1945年。フランスの著作家、詩人、小説家、評論家。多岐にわたる旺盛な著作活動によってフランス第三共和政を代表する知性と称される。作品には『天使』『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法序説』『ムッシュー・テスト』『若きパルク』『海辺の墓地』『精神の危機』などがある。 |
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容易な道を選んではならぬ。近道を抜けてはならぬ |
有島 武郎 |
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1878年〜1923年。小説家。学習院中等科卒業後、札幌農学校に進学、キリスト教の洗礼を受ける。25歳で米国へ留学。帰国後、志賀直哉や武者小路実篤らとともに「白樺」に参加。45歳で軽井沢の別荘で波多野秋子と心中した。代表作は『カインの末裔』『或る女』『惜しみなく愛は奪ふ』など。 |
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107 |
神童、それは多くの場合非常に想像力の豊かな親を持った子供のことである |
ジャン・コクトー |
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1889年〜1963年。フランスの芸術家。詩人、小説家、劇作家、評論家、画家、映画監督、脚本家として活動を行い、その多彩さから「芸術のデパート」とも呼ばれた。自身は詩人と呼ばれることを望んだという。絵画を趣味としていた父は、コクトーが9歳のときピストル自殺している。 |
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108 |
命を奪われた男たちの前に立って思う。生きている限り、彼らを死に追いやった相手と戦い続けると |
フローレンス・ナイチンゲール |
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1820年〜1910年。イギリスの看護師、看護教育学者。人々に奉仕する仕事に就きたいと考え、看護師としてロンドンの病院に無給で就職。クリミア戦争に38名の看護師団を率いて従軍し、その働きぶりから「クリミアの天使」と呼ばれた。看護師への専門的教育の必要性を訴えて看護学校を設立した。 |
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109 |
子供より親が大事。子供よりも、その親の方が弱いのだ |
太宰 治 |
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1909年〜1948年。左翼活動での挫折後、自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、第二次世界大戦前から大戦後にかけて次々に作品を発表。主な作品に『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『人間失格』『斜陽』などがある。玉川上水で愛人の山崎富栄と入水心中した。 |
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幸福は、己れ自ら作るものであって、それ以外の幸福はない |
トルストイ |
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1828年〜1910年。ロシアの小説家、思想家。伯爵家の四男として生まれ、幼くして両親を亡くし、祖母に引き取られた。大学中退後、22歳で小説の執筆を始め、24歳で書いた『幼年時代』で新進作家として注目される。他に『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』などがある。 |
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111 |
抗議すべき時に沈黙してしまえば人は臆病者になる |
エラ・ウィーラー・ウィルコックス |
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1850年〜1919年。アメリカの詩人。幼いときから詩を書き、高校を卒業するころには詩人として知られていた。28歳で結婚し、息子が一人生まれたが、生後間もなく死亡した。神智学、新思想、心霊主義に興味を持ち、夫の死後には、死後の霊的な世界など、超自然的な力について多くを語っている。 |
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112 |
勉強を義務だと思ってはいけません すばらしいチャンスだと思うことです |
アルベルト・アインシュタイン |
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1879年〜1955年。ドイツ生まれの理論物理学者。26歳で特殊相対性理論を、37歳で一般相対性理論を発表し、ノーベル賞を受賞。ルーズベルト大統領に原爆の開発を進言するが、日本への投下に衝撃を受け、戦後は、世界政府の提唱やラッセル=アインシュタイン宣言など、平和運動に取り組んだ。 |
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113 |
なにもかもが完全に準備が整うのを待っていたら、我々はなにも始めることはないだろう |
ツルゲーネフ |
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1818年〜1883年。ロシアの文豪。大地主の子として生まれたが、『猟人日記』を発表して農奴制を批判。これが危険思想とみなされ、逮捕・投獄された。その後も『貴族の巣』
『その前夜』『処女地』『父と子』などを発表して大きな反響を巻き起こし、農奴解放(1861年)に大きな役割を果たした。 |
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114 |
良き書物を読むことは、過去の最も優れた人達と会話をかわすようなものである |
ルネ・デカルト |
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1596年〜1650年。フランス生まれの哲学者、数学者。1歳で母を失い、祖母と乳母に育てられた。「我思う、故に我在り」は、デカルトが『方法序説』の中で提唱した有名な命題である。合理主義哲学の祖とも近世哲学の祖とも言われている。 |
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115 |
心に愛がある人間は、常に成功する |
ヴィッキイ・バウム |
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1888年〜1960年。オーストリアの作家。バウムの作品を原作とした映画『グランド・ホテル』(1932年)がアカデミー賞最優秀作品賞を獲得し、世界的な注目を集めた。その後、米国で著作活動を続け、10以上の作品がハリウッドで映画化された。 |
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若い時には、若い心で生きて行くより無い。若さを振りかざして運命に向かうのだ |
倉田 百三 |
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1891年〜1943年。日本の劇作家、評論家。大正、昭和初期に活躍した。中学を首席で卒業して旧制第一高等学校へ進学し、文芸部と弁論部に所属する。武者小路実篤の新しい村に賛同し協力。親鸞とその弟子唯円を描いた戯曲『出家とその弟子』は大ベストセラーとなり、世界各国で翻訳され、ロマン・ロランが絶賛したことでも有名である。 |
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心とは、満たされるべき器ではなく、燃やされるべき炎なのだ |
プルタルコス |
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46年頃〜127年頃。帝政ローマのギリシア人著述家。アテナイで数学と自然哲学を学び、ギリシャ本土、小アジア、エジプトのアレクサンドリアに赴き、ローマにも度々滞在した。著作活動に熱心で『対比列伝』をはじめ、227もの著作があったと伝えられる。 |
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思いやりのない言葉ひとつでつぶされてしまうなら、それは才能じゃないわ |
マリアン・ムーア |
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1887年〜1972年。アメリカのモダニズム詩人、批評家、翻訳者、編集者。彼女の詩は、形式的な革新、正確な言葉遣い、皮肉、そして機知で有名である。同じアメリカの詩人であるエリザベス・ビショップと親交が深く、互いに影響し合った。ムーアの最も有名な詩は、おそらく「詩」"Poetry" と題されたものである。 |
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運命は神の考えることだ。 人間は人間らしく働けば それで結構だ |
夏目 漱石 |
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1867年〜1916年。小説家、評論家。松山で中学校教師、熊本で高等学校教授を務めたあと、イギリスへ留学。帰国後、英文学を講じながら、『吾輩は猫である』を発表。これが評判になり『坊っちゃん』『倫敦塔』『虞美人草』『三四郎』『こゝろ』『硝子戸の中』『明暗』などを書く。 |
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行動には危険や代償が伴う。しかし行動せずに楽を決めこんだ時の危険や代償と較べれば、取るに足らない |
ジョン・F・ケネディ |
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1917年〜1963年。アメリカ合衆国第35代大統領。名前のイニシャルをとってJFKと表記されることも多い。旧ソ連との間で核戦争一歩手前まで緊張が高まった1962年のキューバ危機を回避したことが任期中最大の外交成果と言われている。在任中の1963年11月22日に、テキサス州ダラスで暗殺された。 |
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