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作 品 紹 介 ペ ー ジ |
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どんな計画でも、重要な要素はあなたの信念です。信念なくしては、立派な結果が出ることはありません |
ウィリアム・ジェームズ |
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1842年〜1910年。アメリカの哲学者、心理学者。自由な雰囲気の家庭で育ち、大学卒業後、23歳で参加したブラジル探検で生物学に興味を持ち、ハーバード大学で学び直して教授となる。プラグマティストの代表。著作に『心理学原理』『宗教的経験の諸相』『プラグマティズム』などがある。 |
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足し算や引き算じゃあるまいし血と肉でできてる人間は算術のようにゃいかないものさ |
ルーシー・モード・モンゴメリ |
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1874年〜1942年。カナダの小説家。「アン・ブックス」の著者。1歳で母を亡くして祖父母に育てられ、教師、新聞記者などを経験しながら小説を書いた。34歳で「赤毛のアン」を出版し世界的ベストセラーとなった。68歳でうつ病が原因で自殺。(自殺説には異論もある) |
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技術は練習を伴わなければゼロである。練習もまた技術を伴わなければゼロである |
プロタゴラス |
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紀元前490年頃〜紀元前420年頃。代表的なソフィスト(報酬を取って徳を教えた弁論家・教育家)。 ギリシアの北方、トラキアのアブデラ出身で、はじめて自ら「ソフィスト」と名のり、ギリシャ各地を遍歴した。
彼の著作は伝わっていないが、「人間は万物の尺度である」という成句で有名である。 |
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仕事が楽しみならば人生は楽園だ。仕事が義務ならば人生は地獄だ |
マクシム・ゴーリキー |
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1868年〜1936年。ロシアの作家。10歳で孤児となり祖母に育てられる。祖母の死に深く動揺し、19歳で自殺未遂事件を起こしたのち、ロシアの各地を放浪する。その後、地方新聞の記者となり、24歳で短編を発表した。社会主義リアリズムの創始者であり、社会活動家でもあった。
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特別に女子のためとして作られた書物は、全て女子を低能児たらしめる劣等の書である |
与謝野 晶子 |
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1878年〜1942年。歌人、思想家。少女の頃から小説、古典に親しむ。22歳で歌人・与謝野鉄幹と不倫の関係になり、のちに結婚。女性教育の必要性を説き、43歳で鉄幹らと文化学院を創設。『みだれ髪』『君死にたまふことなかれ』『源氏物語』の現代語訳でも知られる。 |
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大統領にしても靴磨きにしても、世のため人のために働く公僕だ。世の中に卑しい業というものはない |
エイブラハム・リンカーン |
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1809年〜1865年。第16代アメリカ合衆国大統領。「人民の人民による人民のための政治」という言葉は有名。奴隷解放等の業績が高く評価されている。一方、インディアン民族に対しては徹底排除の方針を採った。リンカーンの「人民」にはインディアンは含まれていなかったのである。 |
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どんな行動にも、必ずそれと等しい反対の反応があるものである |
アイザック・ニュートン |
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1643年〜1727年。イングランドの自然哲学者。グラマースクールでの評価は「怠け者で、注意力散漫」だったが、25歳ごろまでに万有引力、光の分析、微積分法の3大業績を残す。46歳で『プリンキピア』を出版し、ニュートン力学を確立した。53歳で造幣局に努めてからは錬金術の研究に没頭した。 |
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人は生まれたとき無知であって、ばかではない。教育によってばかになるのだ |
バートランド・ラッセル |
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1872年〜1970年。、イギリスの哲学者、論理学者、数学者、社会批評家、政治活動家。ラッセル伯爵家の貴族。生涯に4度結婚し、最後の結婚は80歳のときであった。1950年にノーベル文学賞を受賞している。1955年7月9日、核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴えた「ラッセル=アインシュタイン宣言」を発表した。 |
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自由は法律の保護を得て成立する。人間の世界には法以外の自由はない |
ジェーン・オースティン |
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1775年〜1817年。イギリスの小説家。女性の私生活を皮肉と愛情を込めて描き、その作品は近代イギリス長編小説の頂点とみなされている。主要作品は『分別と多感』『高慢と偏見』『エマ』『マンスフィールド・パーク』『ノーサンガー・アビー』『説得』など。 |
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私は世界に二つの宝を持っていた。 私の友と私の魂を |
ロマン・ロラン |
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1866年〜1944年。フランスの作家。23歳で高等師範学校を卒業し、ローマに留学。28歳から高等中学などで教師を務める。46歳で『ジャン・クリストフ』を書き上げ、50歳でノーベル文学賞を受賞。ヒューマニズム、平和主義、反ファシズムを掲げて戦争反対を世界に叫び続けた。 |
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3時間真剣に考えて結論を出したら、3年間真剣に考えても結論は変らない。 |
フランクリン・ルーズベルト |
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1882年〜1945年。第32代アメリカ大統領。世界恐慌時のニューディール政策、第二次世界大戦への参戦、核兵器の開発、日系アメリカ移民の強制収容、アフリカ系アメリカ人の公民権運動に対する妨害政策などを行った。唯一4選された大統領であり、現在でも国民からの支持は強い。 |
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人生は短いから、私は憎しみや不正をいつまでも心に残してなんかいる暇がない |
シャーロット・ブロンテ |
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1816年〜1855年。イギリスの小説家。ヨークシャーのソーントン生れ。ブロンテ3姉妹(3人とも小説家)の長姉。当時の社会通念に反逆した同名の女性を描いた『ジェーン・エア』で反響を呼んだ。ほかに自伝的な『ヴィレット』などがある。
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両親ほど最も自然にして最も好適な教育者はいない |
ヨハン・フリードリヒ・ヘルバルト |
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1776年〜1841年。ドイツの哲学者、心理学者、教育学者。教育の目的を倫理学に、方法を心理学に求め、教育学を体系化した。大学では教師の育成に努めるとともに、対外的には学校参事官としてプロイセンの学校改革等に従事した。教育の目標は強固な道徳的品性と興味の多面性の陶冶にあるとした。 |
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子供のために、親という重要な職業の適性検査が行われたことはない |
バーナード・ショー |
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1856年〜1950年。アイルランドの文学者、脚本家、劇作家、評論家、政治家、教育家、ジャーナリスト。穀物卸商の父と芸術を愛好する母との間に生まれ、94歳で没するまでに53本もの戯曲を残し「風刺に満ち、理想性と人間性を描いた作品を送り出した」として69歳でノーベル文学賞を受賞した。 |
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樹木で最も大切なのは何かと問うたら、それは果実だと誰もが答えるだろう。しかし実際は種なのだ |
ニーチェ |
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1844年〜1900年。ドイツの哲学者。実存主義の先駆者。少年のころから才能を認められ、給費生として名門校プフォルタ学院に学び、模範的な成績を残す。ボン大学及びライプツィヒ大学で学んだ後、バーゼル大学の教授となり、10年で辞職した後は在野の哲学者となり、40歳台で精神を患った。 |
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私の創作生活の終わりには、きっと私自身のお気に入りが未完成で残っているはずです |
ビアトリクス・ポター |
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1866年〜1943年。家庭で教育され、生涯学校に通うことはなかった。絵本作家としての原点は36歳で出版した『ピーターラビットのおはなし』で、47歳で結婚してからは創作活動も少なくなり農場経営と自然保護に努めた。ナショナル・トラストの活動を支援し、4000エーカー以上の土地を寄付した。 |
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楽しまずして、 何の人生ぞや |
吉川 英治 |
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1892年〜1962年。小説家。旧小田原藩士の家に生まれ、10歳の頃から雑誌に作文を投稿していた。小学校を中退し、職を転々としつつ独学した。29歳で新聞社に入り、文才を認められて作家となる。『鳴門秘帖』『宮本武蔵』『新・平家物語』『私本太平記』などで広範な読者を獲得。70歳で死去。 |
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