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人 物 解 説 な ど |
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作 品 紹 介 ペ ー ジ |
61 |
もし好機が到来しなかったならば、自ら好機をつくりだせ |
サミュエル・スマイルズ |
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1812年〜1904年。英国の作家、医者。著書『Self-Help』は、江戸幕府留学生取締役として英国に留学した中村正直が『西国立志編』として邦訳した。その思想は近代日本の形成に大きな影響を与えたと言われている。Self-Helpは『自助論』として知られる。Self-Help序文中の「天は自らを助くる者を助く」は広く知られている。 |
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62 |
女とゾウは、忘れない生き物なのよ |
ドロシー・パーカー |
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1893年〜1967年。アメリカ合衆国の詩人、短編作家、評論家、風刺家。問題の多い不幸な子供時代を過ごした後、文学作品や映画台本作りを追求した。アカデミー賞候補にもなったが、左翼政治に関与したととられ、ハリウッド・ブラックリストに載ったために潰えることとなった。「皮肉屋」としての評判を嘆いていた。 |
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63 |
一番小さなことでも満足できる人が一番裕福である |
ソクラテス |
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紀元前470年頃〜紀元前399年。古代ギリシアの哲学者。自身は一切の著述を行わず、主に弟子のプラトンとクセノフォンの著作を通して知られる。若者を堕落させたとして公開裁判にかけられ、死刑判決を受けて自らドクニンジンの盃をあおった。釈迦、キリスト、孔子と並び四聖人(四聖)に数えられる。 |
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64 |
鳥獣は譲ることを知らぬ。人には、今日のものを明日に譲り、子孫に譲り、他人に譲るという道がある |
二宮 尊徳 |
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1787年〜1856年。農政家、思想家。農民として生まれ、十代で両親を亡くすが、読書に励みよく働き、生家を再興させた。23歳の頃には小田原藩家老より家政の建て直しを依頼されこれを成し遂げた。報徳思想を唱えて、下野国桜町をはじめ各地の農村の復興を指導し、70歳で世を去った。 |
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65 |
世には沢山のいい格言がある。人がそれらを適用することに欠けているだけだ |
ブレーズ・パスカル |
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1623年〜1662年。フランスの哲学者、自然哲学者、物理学者、思想家、数学者、キリスト教神学者、発明家、実業家。幼少の頃から天才ぶりを発揮した。圧力の単位、パスカルに名を残している。多数の名文句や有名な思弁がある遺稿集『パンセ』は有名である。 |
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66 |
わたしの頭を切ってみてごらんなさい。中は13歳よ |
ココ・シャネル |
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1883年〜1971年。フランスのファッションデザイナー、企業家。彼女が創設したシャネルブランドは世界有数のファッションブランドとして現在も営業している。
20世紀初頭からファッションデザイナーとして活躍し、一時的な活動停止を経て、その死に至るまで世界の代表的なファッションデザイナーであり続けた。 |
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自ら労して自ら食うは、人生独立の本源なり |
福澤 諭吉 |
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1835年〜1901年。啓蒙思想家、教育者。緒方洪庵に蘭学を学び、渡米・渡欧し『西洋事情』で欧米文明を紹介する。また慶應義塾を創設し啓蒙活動を展開、『学問のすゝめ』はベストセラーとなる。また「時事新報」を創刊し幅広く論説を発表した。2004年から発行されている1万円札の顔である。 |
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68 |
学問は一種のギャンブルである |
野口 英世 |
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1876年〜1928年。医師、細菌学者、キリスト者。 高等小学校を卒業して上京し、済生学舎に通い、医術開業試験に合格して医師となった。渡米してペンシルベニア大学医学部の助手を経て、ロックフェラー医学研究所研究員となった。主に細菌学の研究に従事し、黄熱病や梅毒の研究で知られる。黄熱病の研究中に自身も罹患し、51歳で死去。 |
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もろともに泣かむとぞ思ふたたかひに子を失ひし母をたづねて |
柳原 白蓮 |
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1885年〜1967年。歌人。25歳で炭鉱王・伊藤伝右衛門と二度めの結婚をするも、36歳で社会運動家の宮崎龍介と駆け落ち。娼婦の救済活動等を行う。戦後は「悲母の会」を結成、これを発展させて世界連邦婦人部部長として平和運動に打ち込む。著作は『踏絵』『荊棘の実』『ことたま』など。 |
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人は自然から遠ざかるほど病気になる |
ヒポクラテス |
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紀元前460年頃〜 紀元前370年ごろ。古代ギリシアの医者。エーゲ海に面したイオニア地方南端のコス島に生まれ、医学を学びギリシア各地を遍歴したと言い伝えられるが、その生涯について詳しいことは分かっていない。医学を原始的な迷信や呪術から切り離し、臨床と観察を重んじる経験科学へと発展させた。 |
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我々の生活に必要な思想は、三千年前に尽きたかもしれない。 |
芥川 龍之介 |
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1892年〜1927年。小説家。生後7か月ごろに母が精神に異常をきたし、母の実家の芥川家で養育される。大学在学中に同人誌『新思潮』を刊行し『老年』を発表。23歳で『羅生門』を『帝国文学』に発表。『芋粥』『藪の中』『地獄変』など古典から題材をとったものが多い。35歳で服毒自殺。 |
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あやまちは、やすきところになりて、必ずつかまることにそうろう |
兼好法師 |
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1283年頃〜1352年以後。鎌倉末期の歌人・随筆家。後二条天皇に武士として仕えたが、天皇の没後出家し、兼好と名乗る。兼好法師。老荘思想や儒教を学び、日本の古典にも詳しく、随筆文学「徒然草」を書いた。 |
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私たちが戦うからこそ、神は勝利を与えて下さる |
ジャンヌ・ダルク |
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1412年〜1431年。12歳で「イングランド軍を駆逐して王太子シャルルをフランス王位に就かしめよ」という神の声を聴き、17歳で指揮官の一人となった。兵士の士気を鼓舞し、フランス軍の快進撃を作り出した。しかし18歳で捕虜となり、裁判にかけられて、異端として19歳で火刑に処せられた。 |
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知性+個性、それが真の教育のゴールだ |
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア |
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1929年〜1968年。アメリカ合衆国のプロテスタントバプテスト派の牧師。キング牧師の名で知られ、アフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者として活動した。 「I Have a Dream」で知られる有名な演説を行った。1964年のノーベル平和賞受賞者。メンフィス市内で白人男性のジェームズ・アール・レイに撃たれて死亡した。 |
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教育こそが未来へのパスポート |
マルコム・X |
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1925年〜1965年。アフリカ系アメリカ人のイスラム教活動家、人権活動家、公民権運動家。 父の死と母の入院後、児童養護施設等で青春時代を過ごし、21歳のとき窃盗等の罪で服役。服役中にネーション・オブ・イスラム(NOI)に参加。NOIの顔として黒人至上主義、黒人と白人の分離を主張。その後NOIと対立し、メンバーに撃たれて死亡した。 |
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元始、女性は実に太陽であった。真心の人であった |
平塚 らいてう |
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1886年〜1971年。日本の思想家、評論家、作家、フェミニスト。大正から昭和にかけて婦人参政権等、女性の権利獲得に奔走した。戦後は主に反戦・平和運動に参加した。日本女子大学校家政学部卒、2005年に同大学は平塚らいてう賞を創設した。 |
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世の中に 思ひあれども 子をこふる 思ひにまさる 思ひなき哉 |
紀 貫之 |
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872年〜945年。平安時代前期から中期にかけての貴族・歌人。醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である『古今和歌集』を紀友則・壬生忠岑・凡河内躬恒と共に撰上。三十六歌仙の一人。散文作品としては『土佐日記』がある。 |
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78 |
人間の奥底には生きる意味を「死に物狂い」で知りたがる願望が激しく鳴り響いている |
アルベール・カミュ |
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1913年〜1960年。フランスの小説家、劇作家、哲学者。小説『異邦人』、エッセイ『シーシュポスの神話』などで「不条理」の哲学を打ち出して注目され、戦後は戦闘的なジャーナリストとして活躍した。史上2番目の若さ、44歳でノーベル文学賞を受賞した。交通事故により47歳で急死。 |
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子供達に囲まれて人生の最後の時を迎える人を、私は幸福だと思う |
フランツ・グリルパルツァー |
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1791年〜1872年。オーストリアの劇詩人。大学時代に父を亡くし、卒業後は大蔵省の役人として勤めながら劇作家としての活動を始める。1816年、処女作品『先祖の女亡霊』を執筆、翌年に上演されて成功を収めた。弟の自殺、母の自殺などの苦難に見舞われながら劇作品を執筆し成功を収めた。 |
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一人になれた時、自分をとりもどせるの |
マリリン・モンロー |
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1926年〜1962年。アメリカ合衆国の女優、モデル。典型的な"Blonde bombshell"「金髪美女」役を演じ、1950年代で最も人気のあるセックスシンボルの1人。1962年に予期せぬ死を迎えるまで、わずか10年ほどの活躍だったが、彼女の映画は2億ドルの収入を得た。 |
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81 |
非常な進み方をしていて手に負えぬ。思想の対立、科学の進歩 |
志賀 直哉 |
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1883年〜1971年。日本の小説家。明治から昭和にかけて活躍した白樺派を代表する小説家のひとり。「小説の神様」と称せられ多くの日本人作家に影響を与えた。代表作に「暗夜行路」「和解」「小僧の神様」「城の崎にて」など。 |
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82 |
自家愛し他人憎む、同郷人愛し他郷人憎む、愛す者の為憎む者を討つ、是を愛國心と云ふ |
幸徳 秋水 |
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1871年〜1911年。明治時代の社会主義者・無政府主義者。新聞記者として活躍後、社会主義者となり日本社会民主党を創立したが、直ちに政府によって禁止された。32歳で仲間とともに平民社を創立し「平民新聞」を出して日露戦争に反対した。大逆事件で政府の謀略によって死刑となった。 |
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83 |
私達の恐れがより小さくなるように、今、さらに理解を深めるときなのです |
マリ・キュリー |
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1867年〜1934年。ポーランド出身の物理学者・化学者。放射線の研究で、ノーベル物理学賞及び化学賞を受賞し、パリ大学初の女性教授に就任した。1909年、アンリ・ド・ロチルドからキュリー研究所を与えられた。放射線被曝による再生不良性貧血によって死亡したと考えられている。 |
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84 |
人生の前半は親によって台無しにされ、後半は子供によって台無しにされる |
クラレンス・ダロウ |
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1857年〜1938年。労働事件や社会問題に関わり、レオポルドとローブ事件(2人の学生が自分たちの優越性を立証するために完全犯罪を成し遂げようと実行した誘拐殺害事件)や進化論教育が問題となったモンキー裁判の弁護で有名。 |
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85 |
誰もはじめは子供だった。しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない |
サン・テグジュペリ |
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1900年〜1944年。フランスの作家、操縦士。郵便輸送のためのパイロットとして、欧州-南米間の飛行航路開拓などにも携わった。自由フランス空軍に所属し、偵察飛行中、地中海上空で行方不明となる。主な作品は、南方郵便機、夜間飛行、人間の土地、星の王子さま、など。 |
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86 |
人間は、世のため人のために、事を為すために生まれてくるのだ |
坂本 龍馬 |
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1836年〜1867年。江戸時代末期の志士。土佐藩を脱藩し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(のちの海援隊)を結成した。薩長同盟の成立に協力するなど、倒幕および明治維新に関与した。大政奉還成立の1か月後に近江屋事件で暗殺された。 |
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87 |
色に迷う人は迷えばいい。 情に狂う人は狂えばいい |
樋口 一葉 |
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1872年〜1896年。幼少時代に草双紙の類いを読みふけった。兄と父の死によって苦しい生活を強いられる。20歳で『闇桜』を発表したのをはじめ『たけくらべ』『にごりえ』などの名作を次々に発表したが、肺結核のため24歳で死去。2004年から発行されている5千円札の顔である。 |
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88 |
子供に直したい面があるなら、まず、自分も同じ面を持っていないかを見極めるべきである |
カール・ユング |
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1875年〜1961年。スイスの精神科医・心理学者。少年期から己の内面に深い注意が向けられ、善と悪、神と人間についての思索に没頭する。大学医学部ではブロイラーに師事し深層心理について研究、分析心理学を創始した。また、学生時代にゲーテ、カント、ニーチェの著作に感銘を受けた。 |
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89 |
正しい時に、正しい程度に、正しい目的、正しい方法で怒ることは簡単ではない |
アリストテレス |
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前384年〜前322年。古代ギリシアの哲学者。幼少にして両親を亡くし義兄の下で育つ。17歳の頃、プラトンのアカデメイアに入門。49歳頃、学園「リュケイオン」を開設し、散歩しながら議論したため、逍遥学派と呼ばれた。62歳で死去。多岐にわたる研究の業績から「万学の祖」と呼ばれる。 |
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90 |
ほんとうに心が傷つくのは、夢を奪われたとき |
パール・バック |
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1892年〜1973年。アメリカの小説家。宣教師の両親と中国に渡り、そこで育つ。処女作『東の風・西の風』に続き、1931年に代表作『大地』を発表して1932年にピュリッツァー賞を受賞。『大地』は『息子たち』『分裂せる家』とともに三部作を成す。1938年にノーベル文学賞を受賞した。 |
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