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作 品 紹 介 ペ ー ジ |
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長所を発揮するように努力すれば、短所は自然に消滅する |
渋沢 栄一 |
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1840年〜1931年。実業家、慈善家。豪農から幕臣に取り立てられ、ヨーロッパ各国を訪問。明治政府では大蔵官僚。退官後は実業家に転じ、多種多様な会社の設立に関わった。2024年より新一万円札の顔となる。また2021年に渋沢を主人公としたNHK大河ドラマ『青天を衝け』が放送された。 |
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後悔は結構だが、それは自己の良心に対しての話で、世間や何かに対して後悔する必要はあるまい |
夏目 漱石 |
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1867年〜1916年。小説家、評論家。松山で中学校教師、熊本で高等学校教授を務めたあと、イギリスへ留学。帰国後、英文学を講じながら、『吾輩は猫である』を発表。これが評判になり『坊っちゃん』『倫敦塔』『虞美人草』『三四郎』『こゝろ』『硝子戸の中』『明暗』などを書く。 |
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大人になっても「若さ」を保有している人達にのみ、いつまでも新しい生活がある |
与謝野 晶子 |
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1878年〜1942年。歌人、思想家。少女の頃から小説、古典に親しむ。22歳で歌人・与謝野鉄幹と不倫の関係になり、のちに結婚。女性教育の必要性を説き、43歳で鉄幹らと文化学院を創設。『みだれ髪』『君死にたまふことなかれ』『源氏物語』の現代語訳でも知られる。 |
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愛は一種の花。種子が風に吹かれ、落ちたところで開花する |
オノレ・ド・バルザック |
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1799年〜1850年。19世紀のフランスを代表する小説家。母親に愛されず、乳母や寄宿学校に預けられ孤独な少年時代を送った。90篇の長編・短編からなる写実的小説群『人間喜劇』の外『ゴリオ爺さん』『谷間の百合』『農民』など多数の作品を執筆した。 |
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お前の絵を最初に評価するのは、お前しかいない。人の評価に身を委ねてはダメ |
岡本 かの子 |
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1889年〜1939年。小説家、歌人。女学校在学中から「明星」や「スバル」に短歌を発表し「青鞜」にも参加して才能を認められた。漫画家岡本一平と結婚。芸術家岡本太郎の母。40歳で欧米に遊び、帰国後、小説を書き始めた。代表作は「鶴は病みき」「老妓抄」「河明り」「生々流転」など。 |
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生命を愛しているなら時間を浪費してはいけない。それは生命の浪費に等しいのだから |
フランクリン・ルーズベルト |
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1882年〜1945年。第32代アメリカ大統領。世界恐慌時のニューディール政策、第二次世界大戦への参戦、核兵器の開発、日系アメリカ移民の強制収容、アフリカ系アメリカ人の公民権運動に対する妨害政策などを行った。唯一4選された大統領であり、現在でも国民からの支持は強い。 |
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浪費するのを楽しんだ時間は、浪費された時間ではない |
バートランド・ラッセル |
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1872年〜1970年。、イギリスの哲学者、論理学者、数学者、社会批評家、政治活動家。ラッセル伯爵家の貴族。生涯に4度結婚し、最後の結婚は80歳のときであった。1950年にノーベル文学賞を受賞している。1955年7月9日、核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴えた「ラッセル=アインシュタイン宣言」を発表した。 |
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女性の参加なしで、真の意味の精神的社会革新が達成された事は一度もない |
エレン・ケイ |
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1849年〜1926年。スウェーデンの思想家。進歩的な政治家である父の影響を受けて育つ。婦人と子供の生活に関心を持ち、教育論、結婚論、婦人運動論を展開。主著「児童の世紀」は児童中心主義思想や新教育運動のバイブル的存在となる。「恋愛と結婚」は日本の女性運動家、平塚らいてう等に大きな影響を与える。 |
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運命とは、受け入れるべきものではない。自ら選び創り出すものだ |
スピノザ |
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1632年〜1677年。オランダの哲学者。ユダヤ人として生まれたが、ユダヤ教の教育に不満を抱き、ギリシャ・ラテンの教養を身につけた。数学・哲学、特にデカルトの哲学を研究した。無神論的な傾向のため、ユダヤ教団から破門された。大学から招かれても拒否し、孤独・貧困の中に一生を送った。 |
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もっとも不幸なのは、せっかくの時間を何に使ったらよいか分からずいたずらに一日を送る人 |
エレノア・ルーズベルト |
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1884年〜1962年。アメリカ合衆国第32代大統領フランクリン・ルーズベルトの妻、アメリカ国連代表、婦人運動家、文筆家。リベラル派として高名であった。1946年、国際連合人権委員会委員長に選出される。人権委員会は世界人権宣言の起草に着手し1948年12月に国連総会で採択された。 |
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思考は極端なものによってのみ進み、中庸なものによってのみ存続する |
ポール・ヴァレリー |
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1871年〜1945年。フランスの著作家、詩人、小説家、評論家。多岐にわたる旺盛な著作活動によってフランス第三共和政を代表する知性と称される。作品には『天使』『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法序説』『ムッシュー・テスト』『若きパルク』『海辺の墓地』『精神の危機』などがある。 |
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人は教える間に教えられる |
セネカ |
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紀元前1年頃〜65年。ローマ帝国の政治家、哲学者、詩人。 父親の大セネカと区別するため小セネカとも呼ばれる。第5代ローマ皇帝ネロの幼少期の家庭教師としても知られ、また治世初期にはブレーンとして支えた。 |
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個人の改善なくして、社会の改革はありません |
マリ・キュリー |
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1867年〜1934年。ポーランド出身の物理学者・化学者。放射線の研究で、ノーベル物理学賞及び化学賞を受賞し、パリ大学初の女性教授に就任した。1909年、アンリ・ド・ロチルドからキュリー研究所を与えられた。放射線被曝による再生不良性貧血によって死亡したと考えられている。 |
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真実は体験するもので、教わるものではない |
ヘルマン・ヘッセ |
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1877年〜1962年。ドイツ生まれのスイスの作家。穏やかな人間の生き方を描いた作品が多い。また風景や蝶々などの水彩画もよくしたため、自身の絵を添えた詩文集も刊行している。1946年に『ガラス玉演戯』などの作品が評価され、ノーベル文学賞を受賞した。 |
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天使とは美しい花をまき散らす者ではなく、苦しむ人のために戦う者のことだ |
フローレンス・ナイチンゲール |
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1820年〜1910年。イギリスの看護師、看護教育学者。人々に奉仕する仕事に就きたいと考え、看護師としてロンドンの病院に無給で就職。クリミア戦争に38名の看護師団を率いて従軍し、その働きぶりから「クリミアの天使」と呼ばれた。看護師への専門的教育の必要性を訴えて看護学校を設立した。 |
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為すべきことは、熱を与えることではなく、光を与えることなのだ |
バーナード・ショー |
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1856年〜1950年。アイルランドの文学者、脚本家、劇作家、評論家、政治家、教育家、ジャーナリスト。穀物卸商の父と芸術を愛好する母との間に生まれ、94歳で没するまでに53本もの戯曲を残し「風刺に満ち、理想性と人間性を描いた作品を送り出した」として69歳でノーベル文学賞を受賞した。 |
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大賢は愚なるが如し |
蘇軾 (そしょく) |
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1036年〜1101年。中国北宋の政治家、文豪、書家、画家。政治家としての活躍の他、宋代随一の文豪として多分野で業績を残した。文学以外では、書家、画家として優れ、音楽にも通じた。地方官を歴任中、筆禍で投獄され、流刑。 哲宗の即位で許され、中央に復帰し、翰林学士、礼部尚書などの要職を歴任した。 |
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人間は、十分な食事をとっていなければ、十分に考え、愛し、眠ることができない |
ヴァージニア・ウルフ |
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1882年〜1941年。イギリスの小説家、評論家。6歳の頃から異父兄から性的虐待を受け、13歳で母の急死によって神経衰弱を発病。その後も神経衰弱とうつ状態を繰り返す。33歳で著作を始め『船出』『ダロウェイ夫人』『灯台へ』『オーランドー』等を発表して名を馳せたが、59歳で自殺した。 |
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重いものをみんなすてると、風のように歩けそうです |
高村 光太郎 |
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1883年〜1956年。日本の詩人・歌人・彫刻家・画家。彫刻家高村光雲の長男。文学にも関心を寄せ、与謝野鉄幹の新詩社の同人となり『明星』に寄稿。ニューヨーク、ロンドン、パリに留学。31歳で智恵子と結婚。智恵子はのちに統合失調症を発病。戦時中は戦意高揚のための戦争協力詩を多く発表した。 |
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勇敢に行動しなさい。そうすれば神も行動されます |
ジャンヌ・ダルク |
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1412年〜1431年。12歳で「イングランド軍を駆逐して王太子シャルルをフランス王位に就かしめよ」という神の声を聴き、17歳で指揮官の一人となった。兵士の士気を鼓舞し、フランス軍の快進撃を作り出した。しかし18歳で捕虜となり、裁判にかけられて、異端として19歳で火刑に処せられた。 |
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本当に偉い人物は偉そうな様子は見せない。つまらぬ人間に限って人を見下すものである |
ウィリアム・ハズリット |
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1778年〜1830年。イギリスの著作家。父がアメリカ独立戦争において植民地側に共鳴し、家族を連れてアメリカ合衆国に渡る。ウィリアムは父や兄によって教育を授けられた。その後イギリスへ戻り、肖像画家、ジャーナリスト、美術評論家、エッセイストなどとして活躍した。 |
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男はせいぜい「完全」を目指すだけだが、女は「完全無欠」を目指す |
エレオノーラ・ドゥーゼ |
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1858年〜1924年。イタリアの女優。父と祖父がともに役者であったこともあり、4歳にして一座に加わる。ヨーロッパで名声を博してから南アメリカ、ロシア、ヨーロッパをツアーして回った。後には自身の劇団を立ち上げた。内向的かつ個人主義的で、芸術家肌の演技によって自己を表現した。 |
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青年は決して安全株を買ってはいけない |
ジャン・コクトー |
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1889年〜1963年。フランスの芸術家。詩人、小説家、劇作家、評論家、画家、映画監督、脚本家として活動を行い、その多彩さから「芸術のデパート」とも呼ばれた。自身は詩人と呼ばれることを望んだという。絵画を趣味としていた父は、コクトーが9歳のときピストル自殺している。 |
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皆が同じ考えでも、それが正しいとは限らない。競馬を見ればすぐ分かる |
マーク・トウェイン |
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1835年〜1910年。アメリカ合衆国の著作家、小説家。『トム・ソーヤーの冒険』の著者として知られ、数多くの小説やエッセーを発表、世界中で講演活動を行うなど、当時最も人気のある著名人であった。ユーモアと社会風刺に富んだ作品で知られる。 |
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人と同じような生活や心を求めて、人々と違うことを成し遂げられるわけはない |
荻野 吟子 |
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1851年〜1913年。男性医師に診察された屈辱的な体験から、女医となって女性たちを救いたいと決意。様々ないじめや苦労の末、医学校を優秀な成績で修了。医術開業試験願を提出したが前例がないと再三却下される。しかし熱意と努力によってようやく受験が認められ合格。診療所を開業。女医を志して15年が経過していた。 |
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教師があまり厳格であると、生徒は自立の志を失う |
サミュエル・スマイルズ |
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1812年〜1904年。英国の作家、医者。著書『Self-Help』は、江戸幕府留学生取締役として英国に留学した中村正直が『西国立志編』として邦訳した。その思想は近代日本の形成に大きな影響を与えたと言われている。Self-Helpは『自助論』として知られる。Self-Help序文中の「天は自らを助くる者を助く」は広く知られている。 |
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私にできるのは愛すること、そして理想を信じること |
ジョルジュ・サンド |
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1804年〜1876年。フランスの作家。父が早く亡くなったため子供時代は父方の祖母の館で過ごし、この経験がのちの田園小説のモチーフとなった。18歳で男爵と結婚したが間もなく別居し、多くの男性と恋愛関係をもった。女性権利拡張運動を主導するとともに文学作品を書き続けた。 |
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自由でないのに自由であると考えている人間ほど、奴隷になっている |
ゲーテ |
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1749年〜1832年。ドイツの詩人・小説家。16歳で大学に入り法律・医学などを学んだ。卒業後、詩や小説を書き、名声を得る。中部ドイツ、ワイマル国の宰相を務める一方、文学や自然科学にも専念してドイツ文化に大きな影響を与えた。代表作は「若きウェルテルの悩み」「ファウスト」など。 |
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私の思想が一体何だ? 大抵は平生親しむ書巻の中から拾って来た、謂はば古手の思想だ |
二葉亭 四迷 |
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1864年〜1909年。日本の小説家、翻訳家。筆名の由来は自身を「くたばって仕舞え」と罵ったことによる。写実主義小説『浮雲』を言文一致体で書き、日本の近代小説の開祖となった。また、ロシア文学の翻訳も多く、ツルゲーネフの『あひゞき』『めぐりあひ』は特に有名。自然主義作家へ大きな影響を与えた。 |
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