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作 品 紹 介 ペ ー ジ |
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何事も楽しいと感じて初めて上達するのです |
シドニー=ガブリエル・コレット |
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1873年〜1954年。フランスの作家、小説家。ブルゴーニュ地方ヨンヌ県出身。ゴーストライターとして夫Willyを支える生活から、離婚によって独立し、踊り子、小説家、ジャーナリストなどとして活躍した。「性の解放」を叫び、同性も対象とした華麗な恋愛遍歴で知られる。代表作のひとつ『ジジ』は、ブロードウェイで舞台化された。このときのオーディションには自ら立ち会い、主演にオードリー・ヘプバーンを抜擢したことでも有名。 |
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人のあたたかさは、自分の心があたたかでなければ分かる筈もない |
吉川 英治 |
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1892年〜1962年。小説家。旧小田原藩士の家に生まれ、10歳の頃から雑誌に作文を投稿していた。小学校を中退し、職を転々としつつ独学した。29歳で新聞社に入り、文才を認められて作家となる。『鳴門秘帖』『宮本武蔵』『新・平家物語』『私本太平記』などで広範な読者を獲得。70歳で死去 |
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世界ぜんたいが幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない |
宮澤 賢治 |
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1896年〜1933年。詩人、童話作家。農学校の教員となるが30歳で退職。昼は開墾、夜は読書と創作の生活をする。「羅須地人協会」を設立して農民芸術を実践。農業指導などに奔走するうち病に倒れ、37歳で死去。主な作品は『銀河鉄道の夜』『雨ニモマケズ』『農民芸術概論綱要』など。 |
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キャリアって素晴らしい。でも寒い夜にそれに寄り添うことはできない |
マリリン・モンロー |
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1926年〜1962年。アメリカ合衆国の女優、モデル。典型的な"Blonde bombshell"「金髪美女」役を演じ、1950年代で最も人気のあるセックスシンボルの1人。1962年に予期せぬ死を迎えるまで、わずか10年ほどの活躍だったが、彼女の映画は2億ドルの収入を得た。 |
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他人の自由を否定する者は、自らも自由になる資格はない |
エイブラハム・リンカーン |
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1809年〜1865年。第16代アメリカ合衆国大統領。「人民の人民による人民のための政治」という言葉は有名。奴隷解放等の業績が高く評価されている。一方、インディアン民族に対しては徹底排除の方針を採った。リンカーンの「人民」にはインディアンは含まれていなかったのである。 |
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富も愛も名誉も暁と共に消える夢。求めるのはただ、耐え抜く勇気と縛られることなき魂 |
エミリー・ブロンテ |
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1818年〜1848年。イギリスの小説家。唯一の長編小説『嵐が丘』を書いた。この作品は当初酷評されたが、没後に評価が高まった。ほかに姉、妹と共に出した『詩集』が評価されている。 |
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愛されないということは不運であり、愛さないということは不幸である |
アルベール・カミュ |
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1913年〜1960年。フランスの小説家、劇作家、哲学者。小説『異邦人』、エッセイ『シーシュポスの神話』などで「不条理」の哲学を打ち出して注目され、戦後は戦闘的なジャーナリストとして活躍した。史上2番目の若さ、44歳でノーベル文学賞を受賞した。交通事故により47歳で急死。 |
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自分の幸せを数えたら、あなたはすぐに幸せになれる |
ショーペンハウエル |
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1788年〜1860年。大学で哲学を学び、25歳で博士論文『根拠の原理の四つの根について』を、30歳で主著『意志と表象としての世界』を書く。芸術論・自殺論が有名だがその論考はあらゆるジャンルを網羅しており、仏教哲学、インド哲学も取り込んでいる。 |
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モラルとは、面白くも何ともない人生を生きるためのもの |
エディット・ピアフ |
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1915年〜1963年。フランスのシャンソン歌手。フランスで最も愛されている歌手の一人であり、国民的象徴であった。ピアフはパリジャンの俗語で雀を意味する。その悲劇的な生涯を反映した痛切なバラードが印象的で広く知られているが、実は、芝居仕立ての歌や軽快な曲なども歌っておりレパートリーは幅広い。 |
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私が頷いたときに頷くような友は必要ない。そんなことは、私の影がずっとうまくやる |
プルタルコス |
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46年頃〜127年頃。帝政ローマのギリシア人著述家。アテナイで数学と自然哲学を学び、ギリシャ本土、小アジア、エジプトのアレクサンドリアに赴き、ローマにも度々滞在した。著作活動に熱心で『対比列伝』をはじめ、227もの著作があったと伝えられる。 |
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見えないものを見、より深くものを見るのが詩人。数学者も同じ。 |
ソフィア・コワレフスカヤ |
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1850年〜1891年。ロシアの女性数学者。ロシアで初めて大学教授の地位を得た女性である。偏微分方程式に関する「コーシー=コワレフスカヤの定理」で知られる。晩年には幼少期の思い出をつづった自伝的小説を執筆。日本では『ソーニャ・コヴァレフスカヤ―自伝と追想』岩波文庫。 |
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「そのうちやる」という名の通りを歩いて行けば「何もしない」という家に着く |
ミゲル・デ・セルバンテス |
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1547年〜1616年。スペインの小説家。海軍で被弾、左腕の自由を失う。海賊に捕らわれて5年間の虜囚生活。その後も軍や徴税吏の仕事に関連して二度投獄。58歳で『ドン・キホーテ』がヒットしたが、版権を売っていたため生活面は向上せず。その後『模範小説集』『ドン・キホーテ 後編』などを書いた。 |
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根づきたいという魂の欲求は、最も重要でありながら、最もないがしろにされている |
シモーヌ・ヴェイユ |
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1909年〜1943年。フランスの哲学者。5歳で字が読めるようになり、15歳で大学入学資格試験に、22歳で大学教授資格試験に合格。女子高等中学校で教えながら活発な組合活動を行った。スペイン内戦では外国人義勇軍に参加。 第2次大戦中はド・ゴールの「自由フランス」本部で寝食を忘れて激務をこなし、4か月後に倒れた。 |
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大切なのは疑問を持ち続けることだ |
アルベルト・アインシュタイン |
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1879年〜1955年。ドイツ生まれの理論物理学者。26歳で特殊相対性理論を、37歳で一般相対性理論を発表し、ノーベル賞を受賞。ルーズベルト大統領に原爆の開発を進言するが、日本への投下に衝撃を受け、戦後は、世界政府の提唱やラッセル=アインシュタイン宣言など、平和運動に取り組んだ。 |
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どんな有益な書物でも、読まなければ死骸の文字、読んでも消化しなければ煙 |
広岡 浅子 |
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1849年〜1919年。実業家、社会運動家。女に教育は不要という常識により読書を禁じられるが、17歳で嫁いだ後も独学を続け、20歳で実業界に身を投じる。炭鉱事業などの冒険的事業に乗り出し、狂人扱いされたという。日本女子大学校の発起人の一人。NHK連続テレビ小説『あさが来た』のモデル。 |
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たとえ明日世界が滅亡しようとも、今日私はリンゴの木を植える |
マルティン・ルター |
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1483年〜1546年。ドイツの神学者、作家、聖職者、宗教改革の中心人物。カトリック教会が発行していた贖宥状(免罪符)に疑義を唱えて、聖書に根拠のない秘跡や慣習を否定する『95ヶ条の論題』を掲出し、カトリック教会から破門された。これを発端に宗教改革が進み、プロテスタントが誕生した。 |
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真の寛大さとは、忘恩をも受け入れること |
ココ・シャネル |
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1883年〜1971年。フランスのファッションデザイナー、企業家。彼女が創設したシャネルブランドは世界有数のファッションブランドとして現在も営業している。
20世紀初頭からファッションデザイナーとして活躍し、一時的な活動停止を経て、その死に至るまで世界の代表的なファッションデザイナーであり続けた。 |
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